• 無明 長夜

5月の長い夜

継続は力なり。


よくこの言葉を大人からかけられた記憶がある。

私は集中力が極端に無いので、物事を継続するというのは人一倍難しいことだった。


このn月の長い夜も、もう3回目。

皆さん、私は何とか継続するということが出来ています。


しかし、相も変わらず盛り上がりも下がりもしませんが、一人淡々と考えています。


今夜は n月の長い夜 第三弾についてをまとめてみようと思う。

いつもながら、

このまとめでは、主観的な言葉でなるべく書こうと思うので、見る人によっては多少不快かも知れない。

それを踏まえた上で、興味があれば読み進めてほしい。





お題「マスク」


「マスク」とはそう、あのマスクであり、それ以外のマスクでもある。

一言にマスクと言っても、思いのほか意味は様々であり。

人によってはすれ違い漫才のようにお互いが思うマスクが違うまま会話をすることがあるのかもしれない。


一言でいうなら、マスクは隠すもの。で、よいはず。

隠し事が多い我々人間において、これは必需品と言える。

■何故このお題なのか


今回も実に安易ではあるが、2020年5月。

新型コロナウィルスが、今日も我々人類に猛威を振るっている。


アーティストとして、これに触れた作品を作るか否かすごく悩みました。

結果、これといって作品としては触れませんでした。


現代アート界隈の流行りネタの大喜利化はそれなりに深刻というか、

バンクシーが最近だといつもとちょっと違うことをして叩かれたように

なんにでも乗っかってしまうのは少なからずリスキーで、今の私にとってリスクがあるとは思えませんが。


もしも他所から突然軸がブレたよね。とか言われても困りますし

単に流行りものに乗りたくないひねくれものであり。ノリの悪い方あるので。


コンセプチュアルアーティストとして、ただこれだけ社会と生活に影響を及ぼしたことに

何か考えなくてはなと思いました。


でも私は世界平和も世界を悩ます病気にもさして興味はなく。

ならば機械的に切り取ってこのお題にと。




■まとめてみる

いつも通り、ツイートを貼るなどとおしゃれなことはしない。

見たい人は、 #5月の長い夜 をTwitterで検索して欲しい。



「マスク」これはもう、特に日本人や日常的に着用する習慣のある国の人にとっては共通したものだと思う。

口と鼻を覆うアレの事を思うだろう。


これはツイートでも同じことに触れているが、改めて考えても面白い。

マスクをすることで得られる安心感。


目を合わせるのが苦手な人は結構多いのではと思う。私もそうだ。



しかし、目をサングラスやらで日常的に隠そうとする人は少数派であるし、

色付きですらちょっと失礼な空気になる。


マスクがいつどこでも失礼に当たらないかと言えば、コロナが出る前はそういうものだった。

現在では飲食時ですら、なるべくつける事を推奨としてる。むしろお願いされている。


視線は相手を傷つけることはないが、口は災いを呼ぶと私たちはどこかで共通の認識している。

古くからこのことわざがあるように、口は病気をもたらし、あるいは争いを招く。


マスクをするというのはどちらかと言えば自衛ではなく、他者を傷つけないための蓋か。

あるいは結果的に自分に悪いことが返ってこないようにする蓋か。


それ以外にも、現代人が多く抱えているであろう、コンプレックス。

容姿のコンプレックスばかりは、自分が不愉快な以上どうにかしたいものだ。


マスクというアイテムは、そういったコンプレックスを視界に入れないためのものとも取れる。

何も口を覆うだけがマスクではなく、情報の保護として使われる言葉でもある。

そういった意味では、体系を隠す衣類もマスクかも知れない。


とにかく私たちは、沢山のことをマスクしなければ安心して道を歩くことも出来ない。



私にとってロン毛というものもある種マスクかも知れない。

所属も学歴もないというコンプレックス(正確には履歴書に書くものがないという状態)

これを補う、何か只者ではない空気を醸し出すロン毛。

これはアイデンティティでもあるし、武器でもあるし、マスクでもある。


私が風呂が好きなのは、このマスクを必要としない空間だからなのかもしれない。

産まれたままの姿という表現がされるが、湯船にその姿で浸かる行為は母の中にいたころに近いのかもしれないし。

そういう意味では、最大限に脱力しても守られている感覚が、風呂の気持ちよさなのかもしれない。


私たちはとにかく弱い。

知恵はあるが、力はない。


だからいつも何かから自分を守らなければいけないし。

現代では攻撃されないために相手を守らなければいけない。


優しい人間がどんどん疲弊していく様は、あのアベノマスクと呼ばれた布マスクのように、洗う度に縮む様子と似ているのかもしれない。



我々は守る方法をもっとこの先考えていかなければならないと感じる。

今守っているもの、守ろうとしているもの、守り方。それは正しいのか。





あとがき



5月も4月と同様か、それ以上に時間が駆け抜けていった。

5月終わりが見えた時、この自発的な行いを断念するか考えた私に、冒頭の言葉が誰かの声で聞こえた気がした。


終らせるのは簡単だ。やめてしまえばいい。

考えなければいい。


しかし私は考えることをやめられないから、これを始めた。

作品媒体が限られている以上、簡単にメディアをアップすることが出来ない私は。


こうして私の考えを伝えていくことで、コンセプチュアルアートに興味を持ってもらえればと思っている。

だからもう少し、頑張ってみようと思います。


考えることそのものの面白さが私にとってのアートだ。



それではまた。


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