- 無明 長夜
6月の長い夜
最終更新: 2020年7月27日
空がどんよりとした6月の今日。
体の不調も相まってか、曇り空を楽しめないでいる。
今夜は n月の長い夜 第四弾についてをまとめてみようと思う。
いつもながら
このまとめでは、主観的な言葉でなるべく書こうと思うので、見る人によっては多少不快かも知れない。
それを踏まえた上で、興味があれば読み進めてほしい。
お題「平和」
先に言うと、ラブ&ピースのような世界平和を。とか
そういう話ではない。
もっと個人的で主観的な「平和」についてを考えたかった。
■何故このお題なのか
真の平和なんて自分の半径10mくらいについての話だと私は思っていて。
隕石が落ちても周囲10mの自分の大切なものが守られていればそれは良かったこととするものではないだろうか。
自分が隕石に当たっていれば..!みたいなセリフは、きっとそうでも言わないと自分は助かって良かった。
という気持ちを倫理的に受け入れられなくて泣いていることを誤魔化せないからなんじゃないだろうか。
とか、そんなことを考えて。
だからコロナのが終息しつつあるなかで、この「平和」というお題は的確だと思った。
私自身、身内や知人友人がコロナになったとかは聞かず。
正直安心しているし「平和」を感じているし、結局私は私の世界にしか興味も愛もないのだなと。
■まとめてみる
いつも通り、ツイートを貼るなどとおしゃれなことはしない。
見たい人は、 #6月の長い夜 をTwitterで検索して欲しい。
このお題を決めてからというものの、本当に忙しくて体があちこちおかしくなった。
ようやっと病院に行く時間と気力が出来そうで安心している。
人は結構、時間がない時の方が平和を感じるもんだとこの期間に考えた。
寝る前の数時間が、自分を人間に戻してくれるような、そんな感覚すら覚えた。
正直、最近はSNSにも疲れが出てしまっていて、どうしたもんかと悩んだりもする。
中学生とかが、グループLINEいじめを苦に自殺とか。
ああいった、まさかそんなことで?は、どこの界隈にも存在すると感じた。
そんなにつらいならアーティスなんかやめればいい。という声も聞こえてきそうだ。
至極その通りではある。
今回そんな思いもあって疑似的に活動を停止してみた。
それこそ1週間あるかないか程度。
私にとっての活動の場はもはやTwitterであり、ここで発言することがメインの活動のようになりつつある。
それはそれでどうなんだとか、思いながら休止してみた。
自身のいる世界の狭さを知ると同時に、妙な安心感もあった。
焦燥感からの解放を多少感じた。
平和だったかというと、半分平和、半分暇だった。
この暇というのは、何を考えても作っても発信する先が無くてどうにもならないという暇。
自分の持つ手段の少なさを実感するには十分な時間であり、
いつも反応をくださるTwitter内の交流、この平和に甘んじていたと痛感する。
何事にも関心を抱かなければ平和とは簡単に手に入るのかも知れない。
去年かそれより前に見た、園子温監督の「恋の罠」にて 田村隆一 の詩が登場する。
「言葉なんか覚えるんじゃなかった」
というキーワードはこの6月、よく私の頭の中に浮かんだ。
この詩の本質がどうとか、そんなことはわからないが。
知らなければ確かに悩み苦しむことはなく、興味を抱くこともなかったのだろうと。
しかし私はもう知ってしまいました。
芸術というものの面白さを。
知ってしまった以上、知る前の私には戻れない。
つまり、手放したからといって「ハイ、リセット デス。」とかならないのだ。
じゃあやっぱり死ぬまで楽しみたいじゃないか。
楽しんでればそれも平和だろうと。
平和って0じゃない。きっと。
1ありきで平和なんじゃないのかなと。
■あとがき
いつも誰がこのブログを見てくれているんだろうと思いながら、ほぼ0であった去年から考えると
本当に少しずつ、関心を持ってくれている人が増えているのかも知れない。
だとしたら嬉しいことです。
6月らしく鬱蒼とした内容になりましたが、いつも通り書き直すこともなく、思ったままをつらつらと。
人間の本質は変わりません。
私が仮に病んでいようが、ハイであろうが、卑屈なのはもう変わらないので。
今後とも私のわかりにくいユーモアにお付き合いくださいませ。
それではまた。