- 無明 長夜
それから
先日、友人からの誘いで少々敷居の高いところで食事をしに行った。
ドレスコードが必要なんじゃないかと少しドキドキしつつ、
蛇柄のシャツにジェダイのようなコートを羽織って雪駄を履いた。
最近は不思議と古くからの友人らから連絡が来るタイミングで、
スランプ気味だった私にとっては嬉しい限りのイベントが近く続いている。
今回もその中の一つだった。
高くていい飯食った自慢はインスタグラマーの仕事なので、私はこれをしない。
ただ、素晴らしい体験がそこにあったのは確かで、誘ってもらって本当によかった。
次はいつ行こうかと、もう予定表と睨めっこしている。
とにかくいい日だった。
飯が良かったのは当然で、そうじゃなくて何が良かったかと言えば。
私の活動の話を聞いてくれる数少ない友人であるからで、酒の勢いもあってあれこれと
自分の事を聞いてもらった。
私の問いかけに答え、さらに問いかけを返してくれる。
当たり前のコミュニケーションではあるが、なかなか芸術というジャンルにおいて
作る側にこれをしてくれる人間は少ない。
ものを作る人にも、自分の価値観や作品の事を聞かれたくない人もいる。(ベクシンスキーとか)
私の場合は、聞かれればそれなりに自分の答えは持っているが、自分からはなるべく出さないようにしている。
相手に私の答えこそが正しい解釈だという強制をしたくないからだ。
「悟りの境地だね。」
そう言われて、概ねあっているなと思って頷いたが、完全に悟りに至ったかと言えば
まだまだ幼稚で未熟だ。
人に自分の作品の解釈がどうであるかはある程度強いらない心構えは、活動当初に比べていくらかなくなったが、これはダメだね。みたいなよくわからない否定はきっと受け入れられないだろう。
否定ではなく批判だというパターンにこれはなると思うが。
大半は論理的根拠のない感情論であると私は思う。
そもそも批判は良いところ悪いところをはっきりさせて評価するものだと認識している。
とは言え芸術を論理的にどうこういうのって結構無茶だと私は思うので、好きか嫌いかの前提の上で、ビジネス的な観点で評価するのが妥当なのかなとか考える。
何にせよ評論家という人達は何故そんな肩書を名乗れる自信があるのか、気にはなる。
そこに正解はあるのだろうかと。
とにかくうまい飯を食いながらお互い随分とマニアックな話をして。
頭の悪い私がどこまで彼の話を理解できていたかは定かではないが、
とにかくいつも面白い話をしてくれるので、私はとても楽しい気持ちになる。
あまり人に自分の考えを出すというのは得意でもなく。
かといって話し出すと止まらなくなるのでそれをしないし、基本的に私は聞いて欲しいと言われる側なので
気兼ねなく自分の事を話すのが久しくて嬉しかったのだろう。
他の友人を否定したいわけではないが、考えてみれば私のことを聞く人は少ない。
聞きにくいオーラが。。見たいのは正直理解している。申し訳ない。
だが、もうそんな浅い付き合いでもないでしょう!という人には言いたい。
愚痴なんかよりもっと楽しい話をしよう。
好きなこと、もの。これからのこと。くだらなくても良いから。
話はいくらでも聞くから、酒が喉を潤すまでの間くらいは私のことも聞いてくれ。
本当は話したいことが、私にもたくさんあるんだ。
近々、年に一度会うか会わないかの人らと会う機会がある。
今度は頑張って話を聞いてもらおうと思う。
多分、きっと。
何かまだ書きたい事があったような気がしますが、それはまた。