• 無明 長夜

往々


ここのところなんだかブログの更新が多い気がする。


主にはTwitterでぼやぼやと発言をしているが、時々文字数が足りなくて

こうしてブログに気の向くまま文字を羅列したくなる。




先日、ディレクションユニット無形をひっそりと解散した。



ようやく企画が発足した直後ということもあり、突然穴の開いたような感覚ではあるが。

自分で選んだことなので解散そのものに悔いはない。


そして結局2回目で終わってしまった最後の「イチニンショウ」はこちら↓


イチニンショウ No.002 美容師 ノブ



上の記事にもそれとなく理由は書いているが、結論から言えば温度感が合わなかった。

これは当初から思っていることであったものの、事を荒げないようにとなんとなく有耶無耶なままでいた。


しかし企画がいざ始まると、このもやもやしたものはより私を悩ませた。

どうにかこのもやもやを嫌な感じなく解決できないかと何度も考え、気づけば明け方の日も多々あった。



結果的に、話合いは穏便に済んだと思うが、あの時言葉を選びきれず伝えきれなかったことを

このブログきっと読まないだろうからと少しだけ、書かせてもらう。


君は言うほど私と、私の活動に興味が無いのだと思う。

これは私にだけでなく、他人にもそうなのかもしれない。

自覚はあるのかないのか知らないが、私程度でもそう伝わるのだから気を付けた方が良い。


それは自信の無さからくる保険のような、八方美人さが出ているのだと思う。


だから自信をもっと持ちなさい。

いつも言うが。私には無い、良いものを沢山持っているのだから。



あんまり陰口くさくなるのもよくないので、この辺で。

とどのつまり、私はどうやら人と何かをするのは向いてないのかもと思ったわけで。


それは私自身が、熱量をコントロール出来ていなかった部分もあって。

しかし温度感というものは調整出来ないものだ。

抑えたとしても、内にあるものはずっとメラメラとしているので、心身に良くない。本当に。



だから、関係を悪くする前にどうにかしなければと、折角始まった企画も早々に閉じる結果となった。





私は完璧主義である。

しかし、完璧主義者は良い夢を見ない。




完璧でない自分を受け入れられないからだ。

不完全な自分に満足できないフラストレーションは、他人からの評価で補う他なく。

それは承認欲求となる。


承認欲求は確かに肥大してしまうと厄介ではあるが

結果的には現状に満足せず上を目指すモチベーションになり、技術や表現の向上につながる。


自己満足が出来る人間は、自己評価をきちんと高くつけることが出来る。

だから己の満足に向かってフルに能力を伸ばすことが出来る。

結果としてこれが世間に高評価を得るのは、自己満足でしか成しえない芸当に育つことがあるからだ。



しかしどちらも半端に持ってしまうと、これは途端に難解になる。

だから己を理解することは大切だ。


個人的には後者を高めたほうがいいのだと思う。



私は自分のこの性格にいつも苦しめられる。



時間に終わりはある。

寝なければ具合が悪い、肌も荒れるし顔もなんだか浮かない。

腹が減れば飯を食わなければいけない。

しかし食ってしまうと眠くてしょうがない。


目の前に永遠に膨らむ目標の山があるのに、この睡魔に私は勝てない。


これは悪夢か?

そう思うこともある。


しかし私はどこかで笑っているようにも感じる。

今の私は、間違いなく人生の中で一番燃えているのだ。

無明長夜の名にふさわしい、尽きることのない煩悩を私は抱えている。


これは悲劇のヒロイン的な意味ではなく、これだけのやりたいこと、欲望をもっているのだぞ。

という、欲望コレクション自慢だ。



年を取ると欲望は無くなっていくものだとおもう。

無いことも、保守的になることも悪いとは言わない。


私は持ってないと生きていられないだけで、無い方が気楽な人もいる。

しかし、私は要らぬおせっかいで、私はしばしば欲望の種を与えたくなってしまうので

今回の経験を踏まえてこれは封印しなければいけないと思った。



前にも書いた気がするが、私はきっと仲間が欲しい。

同じ熱量を持ってくれる仲間だ。


ライバルは負けたら悔しいのでいらないが

全く違う事だったとしても、同じ熱量で何かを頑張る人と語りたいのかもしれない。


いまいちこの気持ちの答えは分からない。




最近は、特段絡みは無いが色んなアーティストたちが同じような声を上げている。

こんな状況でどうすればいいのか。


誰にも見てもらえないし買ってもらえない。

モチベーションを維持させるにはSNSのいいねでドーピングするしかない。


だからみんなでどうにかしよう。

とか、新しい何かが必要だとか。




私も同じような気持ちでいる。

アーティストがアーティスト活動で食って生きていくためには金がいる。

これは生き物だから必要だ。


次の作品へのモチベーションために必要だ。

さらなる挑戦のために必要だ。


芸術界隈にはいまだ、生きることの優先度を最低限にしてやる芸術を美だと唱える人らがいる。

かつて貧しくひたすらに作品を作り続けていた人たちは、果たしてそれを望んでやっていただろうか。


野球部で練習中は水を飲ませないみたいな、そんな根性論を押し付けて気持ちがいいのは、押し付けた側だけだ。

現代に生きるアーティストたちはきっと、いつかはこうなりたいという夢の元、守るべきものを守りながら全力戦っている。


例えば家庭を持つものに、芸術のために仕事と家庭を捨てる覚悟を強いる必要はあるだろうか。

まるでそれは、芸という才を持つものに対する嫉妬ではないか。


天は確かに2物以上を簡単に与えるが、持てるものを持っているのだから。

嫉妬はご自由にだが、それをふるい落とさせるのはお門違いである。


この手の人はみな、作品そのものに価値など感じていない。

泥臭い人間味と、作品になるまでの工数や過程を評価している。



絵具とキャンパスで描かれていない絵(デジタルアート)に対する評価も同様だ。

コラージュもそう、写真もそう。



自分が理解できないものは無価値であるというのは大変残念なことである。

唯一抽象画だけは私も理解が出来ないが、あれこそ過程を度外視してみるべきであると思えば何となく納得も出来る。


恐らく抽象画への悪いイメージは、作品がなんであるかよりも誰が作ったかに価値が向くことが多いのが気に食わないのだろう。

しかしその人の魅力がそれほどまでにあるのだとしたら、私は下唇を噛むしかない。



色んな事へのどうしたらいいのか。という問いに最適解が出せないもやもやは

誰かの何かのせいにすればいい酒のつまみだ。


しかし私はこの答えを自分で出せると思いたい。

だけど出せない。


今日も私は不完全なのだ。私はそんな私を許せない。

天使でも悪魔でもいいから、こっそりとこの答えを耳打ちしておくれ。




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