• 無明 長夜

教え

最終更新: 9月15日

これこそ作品のテーマにしたいものの

私が今持つ表現方法ではどうも思うように作れない。



「優しさ」というもの



何度も書いていることの一つだとは思うが、有難いことに人の上に立つ機会をそこそこに頂くが

私がたまたまそう感じるだけなのか


どうも優しさを履き違えている人が多いと教育の中で感じる

未だ理解されたことはないから、私が間違っているのかもしれない。



甘やかすことは優しさではない。

それが母や恋人であるなら、優しさに含まれるかも知れない。


少なくとも仕事という環境では、甘やかすことはこれに該当しないと私は考える

仕事を奪うのは簡単で、やってあげると結果感謝される。


最初は本当に出来ない事に対しての申し訳なさや、もっと頑張らなければという姿勢を見せるが。

人の根本は怠惰であり、あっという間にこれは姿勢だけになる。



出来ない自分を責めつつも、責めたことを免罪符にして永遠出来ない自分を肯定するループに陥る。

そんなことないと怒る人もいるのかも知れないが、私はかつてそうだったし、私が見てきた人たちは大体そうだったので

これは経験則として、私が見てきた範疇での言葉として見て欲しい。



こうなると怖いもので、これまで巻き取っていたものを実践させようとすると一変して厳しいという反応に変わる。

聞かれれば答えるという事は念押しで伝えるが、決まって聞かれることはない。


多くは、「質問したいことが分からない」であり、これを言うのが申し訳ない。そしてこれを言うと怒られるから言いたくないという負の連鎖だ。

「質問したいことが分からない」という事を、仕事を与えた側に察するのは難しい。


出来るようになってしまった側にとって、「出来ない」のレベルは未知でしかないのだ。



だから、そういう意味も含めての「分からないことは聞いてね」というもの

仕事を与えられては途中で巻き取られるを繰り返すと時間だけがいたずらに過ぎてしまい、初心者マークは剥がれてしまう。



こうなると地獄なのだ。

何も成長してないが、席にはそこそこいる人間が出来上がる。



ここからまだ地獄は続く



叱られる。から、やがて感情的な怒られるが増えてくるからだ。


理不尽と感じる機会が増えていく

理不尽さには当然個人差があるし、相手も人なのだから感情的になるのはお互い様であると思う。



そうすると叱られる側は「自分は知らないのに何で怒られるんだ」という感覚に至る

遂に自分の無知さと成長を放棄していたことを完全に肯定して逆切れを起こすのだ。



無知は悪ではない。分からないことを分からないままにすることが一番の癌になるのだ。



こうなってしまうと、教える側の一言一句は全て敵意と受けられる。

何をどういっても敵意として受け入れられると、表面上の返事は良くても結局真意が伝わらなくなる。



すごく下の人が悪い例で書いたが、大切なのは

知らないことを良しとしていいフェーズはもうとっくに過ぎていることを、知らないままでいること。

という状況を理解することにある。


共に働く、作るということは決して家族でも恋人でもない。

優しさは消耗品であり、補填するには努力も優しさも必要だ。



かつて私も自らの怠惰で同じ状態に陥った。

どこかで自分が怠惰であることを自覚していたし、それが原因であることも気付いていた。



だからこそ、遅いスタートであったが出来ないなりに出来ることを探し。

0から聞くことが出来ない事は0.1にでもして聞くようにした。


優しさは無限に一方的には与えられない。

だから相手にも優しくする必要がある、「何か出来ることはありますか」と、出来ないなりにでも協力する姿勢は見せるようにした。

新人フェーズが終わってしまい、経験者扱いの中で自分の評価を上げるためには、ガッツあるのみだった。



人に優しくしなければ、当然それは帰ってこないからだ。

そしてその優しさとは自分が出来ること、したいことをするのではなく、相手がして欲しいことをすることだ。


きっとこうだろうで行動してしまうことは私もいまだにあるし、完璧に相手を理解することは難しい。

だとしても、相手が何をしてほしいか考える事からまずはやってみることが大切と私は思う。



ある程度この続きを書いてから自分の矛盾点に気付いたので、上に書いた内容を私が出来てないという形になるが

私が理解されないのは、多分相手がしてほしくない事をしているからなのだろう。



・してほしい事をしてあげる優しさ

・先々でつまずかない様に標識を置いて道を整備する優しさ



後者は過去問を出して解かせているようなものであって。

私は必ず役に立つと思ってそれを解かせるが、当人たちにはこれが自分のためだなんて思いもしないのだろう。

そもそも私の出す問題が必ずしも正解とも限らない以上、これは私のエゴでしかないとも思う。



10年くらい前に「優しさを履き違えるな」と言われた言葉の答えは、少しわかったようでまた迷宮入りしてしまいそうだ。



なにはともあれ、5年後くらいにあの時ああ言われたな。

と振り返って理解されればいいと考える事で何とか私は保つようにしている。

私はそう振り返れたことで気付けたことが多かったからだ。


本来なら、自分が理解するまでにかかった時間より早く伝わるのがベストだが

先ほど気付いた、相手がしてほしいと思っていないことをよかれとやっているのだから、

今は私が嫌われることで、いつかその人のためになる種になればそれでいいかと考えるしかないのだと思った。



必要悪と言うと恰好は良いが、感情が無い訳でも傷付かない訳でもない。

しかし伝えなければ何も始まらないだから、それでも伝え続けるしかないのだ。


押し付けず、あくまでこういう意図とエピソードがあるからこういうやり方をする。

という説明を省かないよう、何度も伝えていくしか無いのだと思う。



私は自分が好きな人間へ誰よりも優しいつもりでいるし。

見返りなんて一言のお礼で良しとしてしまうくらいお人よしだという自覚もある。


見返りを求めずに優しくするなんて、恋人や家族、恩師でもなければやりもしないのは誰でもそうだろう。

それでも時々、私は見返りを求め過ぎなのだろうかと考える。


お礼より、謝られる終わりの方が多い気がするのは、少しだけ寂しいので

なるべく私からはお礼を言うようにしている。



優しさとはなんだろうか。


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