- 無明 長夜
洞々
世間では緊急事態宣言が延長になる方向で話が進んでいますね。
そんな中、2/19から8日間も個展をやる訳ですが、
私が私であるために、これを今更中止する判断はありません。
これを怒ったり呆れたりする人もいるんでしょうが、私にも曲げられないものがあります。
なのでここで議論する気はないのですが、やれるだけのことは一人でもやります。
正直集客なんて皆無くらいの覚悟です。
そこそこ良いレンズ(カメラの)買えるくらいの金額を使って、準備にもそれなりにお金を注ぎ込んで、買ってもらう以前に来てもらえるかも分からない完全マイナス決算をやるんです。最後まで馬鹿を貫きます。
とはいえ誰にも止められた訳じゃないんです。けど、そう思う人もいるかなとか。
中止にするのかなとか思ってくれてる人がいたら、やりますよ。という意思表示です。
こういう時、行くとも行かないとも言われないのが一番不安というか、拘束力はないですし察しろっていうのも分かるのでしょうがないんですが、色々考えてしまう質なのです。
それでもありがたいことに友人は何人か来てくれるとは話をしてましたが、
気が変わった時は遠慮なく言って欲しいところ。
とにかく、私はやります。
ごめんなさいもよろしくお願いしますも言いません。やります。そこにいます。
今日の本題
作品を作り終えて、もう設営に向けた準備くらいしか残らなくなると。
去年からバタバタ制作していた時間分ぽっかり穴が開くもので、この穴の過ごし方を考えてました。
考えてましたというか、本を色々読んだり次の作品についてラフを起こしたりはしていたんですけれども
もう2ヶ月くらいまともに外出してないので暇を極めていまして。
無明長夜コンセプチュアルアーティスト宣言からしばらく経ちますが、知れば知るほど本当にそうか?って考えています。
極端に端折って言いますけど「現代アート」ってもう全部コンセプトがメインだと思うんですよ。つまり、コンセプチュアルアートはイコール現代アートと言っても過言ではないんです。
抽象画でよく使われるパワーとかオーラとか、ふわっとしたものも言語化出来ていない意図が内包されているだけで、表面上には8割くらい同じような作品に見えてたとしてもそれは作家ごとに違う作品なんですよね。
誰にでも描ける作れると言われがちな抽象画も同じようなもんかと思うと、苦手意識もなんだか薄れるなって思います。
とか、考えてるとコンセプチュアルアートって言葉は随分前人的というか、デュシャンやコスースの時代に取り残された言葉なのか?って思ったりする訳です。
前もどこかで言った気はしますけど、本当は肩書きなんてなんでも良いじゃんですけど、完全な他人から見て何者かわかる情報は短くて正確でなければ興味を持ってもらうフェーズにすら進まないと思うんです。
だから私は肩書きに拘ってしまうんですけど。
今回の個展を終えた先、今見ている私の芸術家としての方向性があるんです。
Twitterでそれとなく書いてますけど、この展示を最後に表現媒体をグラフィックに絞ろうと思っています。
グラフィックというのは写真でもありイラスト的なものを意味するものでもあるので、つまり複製可能なグラフィックというものに絞り込んでいくのです。
革を使った作品は私のアイデンティティにもなりうると思ったりしていたんですが、芸術界隈の技術希少性重視の感覚がどうしても好きになれないので。
私は新たなポジション作ってやるぞっていう意気込みで複製ができるものだけやっていくか。っていうお話です。
今朝6時半くらいまで考え込んで決めました。
決めたのは良いんですけど、最初の話に戻って
じゃあ私はグラフィックアーティストなのか?という問いに帰ってきた今にあります。
やりたいことはずっと変わってませんし変わらないんです。
問いかけたいことがあって、それを表現してるんですけど、小難しい絵を書くわけでも意味不明なオブジェを作るでもなく
シュールだポップだカジュアルだ。そんな感じのノリで楽しめる程度の視覚性と、意図があることを明確を示すタイトル或いはキャプションという組み合わせをやろうとしているんです。
これもまた今更学んだことですが「ネオ・コンセプチュアル・アート」って言葉が既に80年代に生まれてるんですよね。
これに関する情報があんまりないのでいまいち使い勝手に悩みますけども、要するに「わかりやすさ」が評価されるようなった流れでネオになったようです。
一瞬これか!?とも考えましたが、より一層何者か分からん存在になりそうで躊躇しました。
だからまだ答えは出ていません。
まずは今回の個展を終えてから判断しようと思います。
私はまだ進化の途中で、これからも度々自分の形を変えていくんだと思います。
同じことを愚直に続けられないとファンというのはついて来にくいのは重々承知なんですけれど、そもそもは私がやりたいことをやるための無明長夜なので。
誰かの意識に引っ張られてそれを制限してしまったらもうそれは違うよなと。
本当は何度もこの結論に行き着いているのに、不安になる性分なのです。
今年一年の終わりに、私と私を取り巻くものたちがどうなっているか、楽しみであるということにしておきます。
それではまた。